アメリカと北朝鮮のことではありません。
人間国宝の当代桂米朝さんをテレビの番組で知りました。落語の人です。
歌舞伎も能も見たことがないのは日本人としてどうなんだろうという様に、あんまり意識したことのない罪悪感が心のどこかにあるのを最近感じていました。現代文化を波のように浴びている中で、なんだかふわふわしているというか、そういう感覚がだんだん強まってきています。
最先端のテクノロジーが芸術的で大好きな一方。じいちゃん大好き。
古いものにも新しいものにもよさがあるというよなことではなくて、根本的にそのよさは古いものも新しいものも変わらないというのが持論です。私のデジタルに対する感覚は、アナログを扱っている感覚とそれほど違いがありません。それ自体特異なことなんでしょう。
デジタルは比較的整然としている一方、アナログは不確定要素が多い。またはデジタルは単純なことしか解釈も表現もできない(厳密な意味でです)一方、アナログはなんともいえないものを解釈し表現できる。というのがたとえば両者の違いですが、現代のほとんどのクリエイティブな仕事、映画や音楽、デザインにはデジタルが使われていて、対象は人間の感性なわけです。
伝統芸術のこの分野には、デジタルが入る余地がありません。デジタルは媒体として力を発揮するのに、この分野には媒体がないからです。
さて、番組のなかで米朝さんがいいました。
「なくなるとしたら、それが落語という文化の運命だろうね。」※厳密には違う言葉だったかも。
文化の滅亡についての一言です。
82才の落語に人生をかけ、その文化復興に努めてこられた方のこの一言には秘められた「信念」よりもまず「人柄」、そして周囲の人に対する「信頼」が感じられます。
落語見てみたいなと感じました。